都知事選と南北問題

 10日の高円寺の原発反対デモに参加した。デモ初参加で不慣れなながらも、そこはかとない高揚感と、実際の行動で意思表示をしたという充足感を感じたりもしたが、それも束の間、都知事選の開票開始数分後にもう当確予報が報じられ、一転してげんなり。その後、ずっと自分の中のもやもやした気持ちを見つめ続けていて、下記のような考えに至った。こんなちゃらけたブログには似つかわしくないかもしれないが、何より自分への楔として、ここに掲載しておくことにする。

 この期に及んでの投票率の低さからうかがえる人々の無関心さには、失望という言葉以上の感情を禁じ得ないが、それはさておき、マスコミが評するように「都民は安定を選んだ」「改革を望まなかった」ということがこの結果の最大の要因であるとするなら、その短絡思考は都民の未来に暗く大きな影を落としていると思う。民主党の「政権交代」が甚だ期待外れなものであったことに対する失望感を差し引いても、目先の安心・安定ばかりに心を奪われ過ぎてはいないだろうか? もっと重大な選択の時ではなかったのか?

 東日本大震災福島第一原発の事故は、今まで露にされていなかったとても多くの事象を我々の眼前にあぶり出し、国内に「南北問題」が存在することも明らかになってきた。東京の消費する電力を調達するために、原子力推進勢力は東京から離れた福島や新潟に原発を建設してきた。地場産業の乏しい、経済基盤の弱い土地の窮状に目をつけ、土地の買収や雇用の拡大などで住民の目の前に札束をちらつかせ、最重要事項であるリスクに関しては十分な説明も対策もないまま、原発を造っては操業させ利益を上げる。中央の繁栄のために周縁が犠牲になるという構図。いわば東京の植民地をつくってきたようなものだ。

 イシハラは震災発生直後に福島に赴き、ご丁寧にも「私は原発推進派です」と明言している(怪我人の見舞いに行って、傷口に塩をすり込むような行為)。でも、イシハラが東京に原発を造ることに賛成することはないだろう。つまり、東京の繁栄のための「植民地政策」を今後も継続すると言っているようなものだ。都民もいくら喫緊の不安が大きいからといって、そのような人物を首長に選ぶということは、「誰かを犠牲にしても構わないから、自分たちは豊かで安定した生活を保証されたい」と表明しているようなものだ。今回の都知事選の結果は「都民の総意」としてそう言っているようなものだと思う。そういう意味では、我々にはもう福島県民に合わせる顔はない。

 前述の「私は原発推進派」発言の他にも、過去の「三国人」発言や「支那」発言から判る明らかな差別主義(ないしは差別に関しての無頓着)、震災直後の「天罰」発言での残虐なまでの無神経さ、自身の作品での性表現の露骨さを棚上げにしての「青少年健全育成条例」での締め付け強化、人心を無視したお門違いの「花見自粛」発言など、ちょっと思い返しても見識を疑うようなことだらけのこの人物に、「明るい未来」を託せると思う人々の気持ちが俺には理解できない。このような人物が謳う「日本人の連帯の美しさ」が、全体主義への回帰の号令のように聞こえるのは俺だけか?

 福島県民がプルサーマル推進派の知事を選んだことは、今にしてみれば誰にも愚行であったと言えるだろうが、今回の知事選の結果を見る限り、この事態になってもまだ目が覚めない都民のほうが遥かに愚かであろう。未来への重大な分岐点で「都民の総意」は取り返しのつかない誤った選択をしてしまったのではないかと思っている。国の希望的な未来への努力ではなく自分たちの目先の利益を優先させたツケは、いったいいつどこに回ってくるのだろうか?

 今回の知事選の結果を聞いて「もう都民やめたい」とも思ったが、今の自分の仕事や生活の基盤を考えると、それはおいそれと実行に移せる考えではないということにすぐに気づく。危険であることを承知で住み慣れた土地を離れられない福島第一原発周辺の住民の心中を、遅まきながら自分の感覚として理解した次第である。まったくもって申し訳ない。